第1話 トレイシーの脱走

「足元、気をつけろよジェット」

「今度はうまくいくといいね、姉ちゃん」

 トレイシーが弟のジェットと共に、監獄街からの脱走を試みたのはこれで三度目だった。

 深夜、人気もなくAPF|《警察》もいない下水の配管が連なる地下水路を走る。 ここを抜けるとAPFの無人クルーザーが待機しているのを知っていた。

 クルーザーに乗って監獄を出て、故郷のルッケンバックに帰るのだ。

 身に覚えのない冤罪の刑期で貴重な時間を無駄にするなど、気の短いトレイシーには耐えがたい。一緒に投獄された弟のジェットも同じ意見だ。

 トレイシーは18歳。牛のエンブレムのついた黒い革のキャスケット帽をかぶり、ストレートの金髪を革チョーカーをつけた首元まで伸ばしていた。発育のいい身体を真っ白いシャツで包み、袖口はへその上で結んである。

 シャツから突き出す大きな胸を包む黒い下着は丸見えになっていた。黒い革のショートパンツ、すらりと伸びた白い脚、牛のバックルと鋲のついたベルト、お気に入りの黒い革鞄を肩から提げ、ごつい革靴を履いている。

 大きな青い双眸に、きつめの印象を受けるが可愛らしく整った顔。黒い革の意匠で身を包み、一見不良にも見えるその出で立ちをトレイシーは気に入っていた。

 10歳になる弟のジェットは、くせのある金髪を耳あてのついた革のヘアバンドで止め、Tシャツの上から革で出来た短パンのオーバーオール、ぶかぶかの革靴を履いている。

 トレイシーに似て、大きく青い双眸が愛らしい少年だが、顔には常に自信のない表情が張り付いている。
 
 トレイシーは右手に鉄パイプを持ち、左手でライトをかざして、地下から監獄の外へと続く抜け道を探す。

 事前に穴を開けておいた坑道に触れる。トレイシーが壁の切り口をなぞるように、ナイフを持って抜け穴になっている鉄の壁を削ってゆく。

「ね、姉ちゃん――あそこ――なんか、いる」

 ジェットが怯えた声を出す。トレイシーはライトの光をさえぎる長い影を見た。
 能面のような、白い貌の巨大な『なにか』。
 水道管のパイプの狭間から、こちらに姿勢を向けている。

「オオオオオオオオオオオオン!!」

 瞬間、腹に響くようなうなり声と共に、『なにか』は水道管を引き裂き、トレイシーへと跳躍した。
 水道管が破裂し、水が流出。圧力でトレイシーが倒れこむ。

「な、なっ――!?」

 大量の水を浴びながら、トレイシーを見据える白い貌。

 この『なにか』は捕食者に似た脅威で、手に負えない存在だということが直感として全身に駆け巡る。膝が震えだす。

「うぐっ!!」

 『なにか』は身体に纏った極薄の金属板を何本も伸ばし、トレイシーの身体を拘束した。右手に握り締めた鉄パイプが地面に落ちる。目の前にある『なにか』の感情は読み取れない。

 ところどころ機械が埋め込まれた巨大な四肢。口元にはべっとりと血が付着し、顎にかけて一筋の血痕が流れていた。

 『なにか』はトレイシーを前にして、鋭く覗いた歯をかちかちと鳴らしている。鋭い爪を持つ巨大な手がトレイシーの喉元に伸び、白い皮膚を裂いた。プツプツと血泡が溢れ、トレイシーのシャツを染める。

「――」

 首を切られる――!!

 本能的に悟り、トレイシーは身をよじったが、身体は「なにか」に拘束されている。仮面のような無表情を保つ『なにか』の白い貌に釘付けになりながら、トレイシーは未知のものへの恐怖と激痛で、痺れた様にその場から動けないでいた。

 トレイシーを注視する目前の白い仮面には、文字が刻まれている。

「シ、ナーズ…!?」

「姉ちゃん―――!!」

 ジェットが『なにか』につかみかかり、振り払われて地面を転がるのが見えた。トレイシーがようやく悲鳴をあげる。

 そのときだった、無数のライトに照らされて、視界が真っ白になる。

「脱走者確保――!! またおまえか、トレイシー!!」

 光に目が慣れてくると、APFの警官に、周りを囲まれていた。

 「なにか」の姿は跡形もなく消えている。

「事務所まできてもらうぞ! 水道管まで破壊して――! 何度説教されれば気が済むんだ君は……」

 APF警官のグレアムは見知った顔のトレイシーの腕を取った。

「どうしたんだ、その首の傷は!? おい……!? 答えろ! 大丈夫か――?」

 トレイシーが虚ろな瞳でグレアムを見返した。

「化け物……でかい化け物をみたんだ……」

「はあ?」

 グレアムは呆れたようにいうと、トレイシーの首を止血した。

「脱走なんか企てるから無用の怪我を負うんだ、反省しろ」

 グレアムはトレイシーとジェットの両腕に手錠をかけると、留置所まで連行する。

「仮面に――シナーズ……って書いてあった」

「本当だよグレアム! 化け物がいたんだ!!」

 うわごとのようにつぶやくトレイシーに、ジェットも続いて同意した。

「シナーズ(罪人)ね。幻覚でもみたんじゃないのか? 妙な薬はやってないだろうな?」

 地下水路を抜けて、人気のない夜の監獄街を歩く。二人を引っ張っていく警官のグレアムは、訝しげにトレイシーに問いかけた。

「ヤクなんかやってねえよ、このクソ警官!!!」

「それだけ元気なら、怪我も大丈夫か。今日は朝まで説教だ。説教で済むだけありがたく思えよ」

 グレアムは背後で喚くトレイシーを見やり、皮肉をいって笑った。グレアムは視線を目前に戻す。グレアムの目はもう笑っていなかった。

「――とうとう住人を襲いだしたか」

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