セブンシナーズ




第1話 トレイシーの脱走

「こんな街とっとと脱獄してやる――足元、気をつけろよジェット」
「大丈夫だよ。今度はうまくいくといいね、姉ちゃん」
 トレイシーが弟のジェットと共に、監獄街からの脱走を試みたのはこれで三度目だった。深夜、人気もなくAPFもいない下水の配管が連なる地下水路を走る。ここを抜けるとAPFの無人クルーザーが待機しているのを知っていた。
 クルーザーに乗って監獄を出て、故郷のルッケンバックに帰るのだ。身に覚えのない冤罪の刑期で貴重な時間を無駄にするなど、気の短いトレイシーには耐えがたい。一緒に投獄された弟のジェットも同じ意見だ。
 トレイシーは18歳。牛のエンブレムのついた黒い革のキャスケット帽をかぶり、ストレートの金髪を革チョーカーをつけた首元まで伸ばしていた。発育のいい身体を真っ白いシャツで包み、袖口はへその上で結んである。シャツから突き出す大きな胸を包む黒い下着は丸見えになっていた。黒い革のショートパンツ、すらりと伸びた白い脚、牛のバックルと鋲のついたベルト、お気に入りの黒い革鞄を肩から提げ、ごつい革靴を履いている。大きな青い双眸に、きつめの印象を受けるが可愛らしく整った顔。黒い革の意匠で身を包み、一見不良にも見えるその出で立ちをトレイシーは気に入っていた。
 10歳になる弟のジェットは、くせのある金髪を耳あてのついた革のヘアバンドで止め、Tシャツの上から革で出来た短パンのオーバーオール、ぶかぶかの革靴を履いている。トレイシーに似て、大きく青い双眸が愛らしい少年だが、顔には常に自信のない表情が張り付いている。
 トレイシーは右手に鉄パイプを持ち、左手でライトをかざして、地下から監獄の外へと続く抜け道を探す。事前に穴を開けておいた坑道に触れる。トレイシーが壁の切り口をなぞるように、ナイフを持って抜け穴になっている鉄の壁を削ってゆく。
「ね、姉ちゃん――あそこ――なんか、いる」
 ジェットが怯えた声を出す。トレイシーはライトの光をさえぎる長い影を見た。能面のような、白い貌の巨大な『なにか』。水道管のパイプの狭間から、こちらに姿勢を向けている。
「オオオオオオオオオオオオン!!」
 瞬間、腹に響くようなうなり声と共に、『なにか』は水道管を引き裂き、トレイシーへと跳躍した。水道管が破裂し、水が流出。圧力でトレイシーが倒れこむ。
「な、なっ――!?」
 大量の水を浴びながら、トレイシーを見据える白い貌。この『なにか』は捕食者に似た脅威で、手に負えない存在だということが直感として全身に駆け巡る。膝が震えだす。
「うぐっ!!」
 『なにか』は身体に纏った極薄の金属板を何本も伸ばし、トレイシーの身体を拘束した。右手に握り締めた鉄パイプが地面に落ちる。目の前にある『なにか』の感情は読み取れない。
 ところどころ機械が埋め込まれた巨大な四肢。口元にはべっとりと血が付着し、顎にかけて一筋の血痕が流れていた。
 『なにか』はトレイシーを前にして、鋭く覗いた歯をかちかちと鳴らしている。鋭い爪を持つ巨大な手がトレイシーの喉元に伸び、白い皮膚を裂いた。プツプツと血泡が溢れ、トレイシーのシャツを染める。
「――」
 首を切られる――!! 本能的に悟り、トレイシーは身をよじったが、身体は「なにか」に拘束されている。仮面のような無表情を保つ『なにか』の白い貌に釘付けになりながら、トレイシーは未知のものへの恐怖と激痛で、痺れた様にその場から動けないでいた。トレイシーを注視する目前の白い仮面には、文字が刻まれている。
「シ、ナーズ…!?」
「姉ちゃん―――!!」
 ジェットが『なにか』につかみかかり、振り払われて地面を転がるのが見えた。トレイシーがようやく悲鳴をあげる。そのときだった、無数のライトに照らされて、視界が真っ白になる。
「脱走者確保――!! またおまえか、トレイシー!!」
 光に目が慣れてくると、APFの警官に、周りを囲まれていた。「なにか」の姿は跡形もなく消えている。
「事務所まできてもらうぞ! 水道管まで破壊して――! 何度説教されれば気が済むんだ君は……」
 APF警官のグレアムは見知った顔のトレイシーの腕を取った。
「どうしたんだ、その首の傷は!? おい……!? 答えろ! 大丈夫か――?」
 トレイシーが虚ろな瞳でグレアムを見返した。
「化け物……でかい化け物をみたんだ……」
「はあ?」
 グレアムは呆れたようにいうと、トレイシーの首を止血した。
「脱走なんか企てるから無用の怪我を負うんだ、反省しろ」
 グレアムはトレイシーとジェットの両腕に手錠をかけると、留置所まで連行する。
「仮面に――シナーズ……って書いてあった」
「本当だよグレアム! 化け物がいたんだ!!」
 うわごとのようにつぶやくトレイシーに、ジェットも続いて同意した。
「シナーズ(罪人)ね。幻覚でもみたんじゃないのか? 妙な薬はやってないだろうな?」
 地下水路を抜けて、人気のない夜の監獄街を歩く。二人を引っ張っていく警官のグレアムは、訝しげにトレイシーに問いかけた。
「ヤクなんかやってねえよ、このクソ警官!!!」
「それだけ元気なら、怪我も大丈夫か。今日は朝まで説教だ。説教で済むだけありがたく思えよ」
 グレアムは背後で喚くトレイシーを見やり、皮肉をいって笑った。グレアムは視線を目前に戻す。もう笑っていなかった。
「――とうとう住人を襲いだしたか」


第2話 メサイアとシナーズ

 トレイシーはジェットと共に事務所に連れて行かれた。ブラインドが落とされた几帳面に整頓された室内。明け方まで続くグレアムの説教を、生返事で受け流す。トレイシーは椅子に腰掛けて机にだらしなく突っ伏し、室内に流れるラジオを聞いている。ジェットは傍らの椅子にもたれかかり、寝息を立てていた。
『化石燃料にかわる新たなエネルギーが開発され、導入を待つのみとなりました――』
 トレイシーの頭には、新エネルギーの導入、という単語だけが残り、あとの流れは頭に入ってこなかった。トレイシーのニュースに対する姿勢はおざなりである。それでも困ったことがないのは、要領よく必要な単語だけに反応するからだ。
「おい、きいてるのかトレイシー? 僕は君達の為を思っていってるんだぞ。監獄街のシステムの目を逃れて借りに脱獄できたとしよう。だが、後に待ってるのはさらなる重刑と、APFによる容赦のない追跡だ。APFの組織力をなめないほうがいい。それにひきかえ、君の刑期はたった三年じゃないか。この街やAPFを敵に回して、残りの人生まで棒に振ることはないと僕は思うがね――」
 グレアムは熱っぽい口調で、拗ねたように机に突っ伏すトレイシーに向かって続けた。心配しているのは本心らしい。
 グレアムは真面目な新米警官だ。盲目なのに盲導犬を連れて危険な現場に出たりする。近年では麻薬捜査に盲目捜査官の洞察力を必要とする例もあるそうなので、グレアムも洞察力を買われてこの仕事をしているのだろう。グレアムは事件で関わった人間すべてに、面倒と思うことなく情をかける。人当たりも良く、性格も良い。短く清潔感のある長さに整えられた髪に、APFの青い制服を長身痩躯な体躯でスマートに着こなし、人の良さそうな顔をしている。年はトレイシーより少し上くらいだろう。グレアムは善良という言葉をそのまま人間にしたような男だった。
「――わかった。心配かけて悪かったよ、もうしないから」
「君のわかった、は信用できないからな。そういって三回目だ。四回目はないと誓ってくれるかい?」
 グレアムは淡いブルーの義眼がはめられた双眸から、真摯な眼差しを覗かせていった。
「誓うよ。ママのエプロンの紐にかけて誓う、誓う」
 トレイシーがめんどくさそうに応えると、グレアムがため息をついた。
「僕だって、君の冤罪を疑っている訳じゃない。僕は君の免罪を求める書面だって、もう何回も上に提出しているんだ。君が嘘を言ってるとは思っていないよ。なにせこの街では――」
 トレイシーは机に突っ伏しながら、半ば睨むようにしてグレアムをみつめている。グレアムは盲目で人の視線を感じることが出来ない。トレイシーは目が大きいので眼差しには迫真力がある。その棘のある視線に気づかず、グレアムは続けた。
「嘘をついたら自爆する。血中に打たれたクレイモア(地雷)という薬品が、嘘を関知して高温を発する。タンパク質が破裂して爆発するって仕組みだ。君も嘘つきの末路をこの街でよく見てきたと思うけど――」
 街の罪人は全てクレイモアという薬品を血中に打っている。嘘を関知して破裂する薬品。監獄街では正直者しか生きられない。
「君が自爆しないということは真実なんだろう。そこは疑っていないよ。ただ自分やジェットの身の安全を考えて――」
 トレイシーは事務所のパイプ椅子から立ち上がった。
「バイトに行かなきゃ、配達の時間に遅れると店長にも怒られる」
「もうそんな時間か。じゃあ、きっちり労働に励んでくるといい」
 グレアムがお説教の終わりを匂わせた。
「長々悪かったな。デートの約束とかすっぽかす羽目になったんじゃないのか?」
 トレイシーがグレアムに皮肉を言った。
「僕にそんな相手はいないよ。――っていったら、君が相手をしてくれるのかい?」
 グレアムが冗談めかして言った。
「あたしはしつこい男が嫌いなんだ。6時間ぶっつづけで小言を並べるような野郎とかね」
「僕も水道管を破裂させて良心の痛まない子は嫌だね。では道徳にのっとって規律正しく良い一日を」
 グレアムは起きあがるトレイシーと寝ぼけなまこのジェットを立ち上がって見送った。トレイシーは事務所から出て、降り注ぐまぶしい朝日を身に浴びた。近くの噴水には少女にひれ伏す獣の像が建ち、涼しげな音を立てている。
「あの像……なんの意味があんの?」
 トレイシーがぶっきらぼうに、傍らのグレアムに話しかけた。
「あれは『メサイア』と『シナーズ』だ。少女の救世主に、獣が犯した罪を懺悔しているのさ。どういう意図で作ったのかは彫刻家に聞かないとわからないけどね」
 グレアムが口元だけで笑っていった。
「……あたし本当に見たんだよ、その……シナーズって化け物を。嘘じゃないよグレアム」
「自爆しないなら、君の中では真実なんだろうね。じゃあ、その化け物が存在するという第三者にもわかる証拠を持ってきてごらんよ。警察は証拠がないと動けない。それと――」
 グレアムがコーヒーカップを置いて、形のいい人差し指を立てた。
「この街の――人喰男には気をつけるんだよ。特に夜道にはね。遭遇したら命はないといわれている。いくらおてんばな君でも」
 トレイシーはグレアムの言葉に頬を膨らませて応えると、市街地に歩き出した。



「私は哀れな罪獣ではなく、少女の方に用があるのだがね」
 APFの研究所。リノリウムの床にシナーズの血が広がっている。人喰男――街中に手配書が貼られ、監獄街アルカトラズで知らないものはいないとされる、18世紀の終わりから生き続ける食人鬼であり闇医者でもあるアリス。アリスは杖に仕込んだ改造散弾銃による銃撃をシナーズにあびせた。
 アリスは黒のシルクハット、癖のついた長い黒髪、白塗りの顔に道化のような化粧を施し、鼻が高く彫りの深い顔立ちに、威圧感ある黒い双眸をしている。首元に真紅のスカーフ、金縁の刺繍がなされた黒のフロックコート、黒く光る革靴。黒と赤が基調の紳士的な出で立ちに身を包んでいた。両手には大きなトランクを持ち、中から大量のメスを取り出し武器にしていた。反対の手には銃を仕込んだ黒い杖を持っている。道化のような化粧をしているが少しも滑稽ではなく、大きな体躯から漂う威圧感が雰囲気を異様なものにしていた。仮面のように張り付いた無表情から、感情は読み取れない。
 APFの職員は一人残らずアリスにやられている。その隙間を縫って、一人の少女が施設を駆けていく。年のころは12歳くらい、実験服のような白いワンピースを着て、黒く細いリボンで結んだ長い金髪をなびかせ、必死の表情で走っている。
「待ちたまえ――」
 アリスはそういうと、両手に携えた複数のメスを少女に投擲した。少女を守るかのように、シナーズがアリスの行く手を阻む。
「邪魔立てするか、逃がさんぞメサイア」
 アリスはシナーズの腕の間接をメスで切り裂き、怪力で押さえつける。間髪いれず、片腕をむしりとった。シナーズが悲鳴を上げる。
 その隙に、少女は施設の外へ駆けていってしまった。



「よお二等兵。お前、また脱走したんだってな。面白かったか?」
 トレイシーがバイト先の飲食店・フルメタルジャケットに着くなり、店長のマッドジョーカー軍曹に背後から胸を揉まれた。
「やめてください店長(サー)!」
 セクハラは日常茶飯事だった。監獄街から脱走したいのはこの店長のせいもある。
マッドジョーカー軍曹は三十代なかばの軍人で、黒いハンチング帽に胸板の見える黒軍服、黒い軍靴、後ろに結んだ黒髪という黒尽くめの格好に、偏執狂じみた双眸をしている。もとは優秀な軍人だというが、つかみどころのない変人だった。店も軍基地のようで、テーブル名に海域の名前がつき、出している食事は各国の戦闘糧食だった。ウエイトレスのトレイシーは二等兵と呼ばれている。
「脱走好きな二等兵よ、ここから無事に出たいんだったら、この店以外の飲食物は絶対に口にするなよ。戦闘糧食は足りてるか? 弟の分もだ」
 マッドジョーカー軍曹がまじめな顔で言ってきた。トレイシーはこの店が客に出している各国の戦闘糧食は嫌いではない。保存食なのだが味はいいからだ。マッドジョーカー軍曹は、この街にきて初日から店の戦闘糧食を店員に配り『出所まで、この街に流通するほかの食物を食べるな、後悔したくなければな』といい、物議をかもした。
「でも店長(サー)、なんでここの戦闘糧食しか食べちゃいけないんです?」
 店員の中でも珍しく、マッドジョーカーの言いつけを律儀に守っているトレイシー。マッドジョーカー軍曹は、店の掃除をしながら大げさな身振り手振りで応えた。
「それはな二等兵――」
「それは?」
 トレイシーが息を呑む。
「うちの戦闘糧食は食うとおっぱいがでかくなるからだ!ガハハ!」
 マッドジョーカー軍曹はそういうと、再びトレイシーの胸を揉んだ。トレイシーは顔を赤くしてやんわりと拒否した。
「おっいいぞ、二等兵。そのスレてない反応に心が洗われる! まあそれはジョークにしてもだ。足りなくなったら地下の倉庫からメシもってけよ。本当に後悔することになるからな。今は言っても信じられんか、俺が頭おかしいと思われるからな」
 いまも頭おかしいと思ってます、といいかけてトレイシーは口をつぐんだ。
「店長(サー)、あたし昨日の晩、おかしなものをみたんだ。シナーズって刻印がしてある化け物がいて、APFのグレアムにそれを言っても信じてくれなかったんだよ。警察を動かしたかったら証拠をもってこいって」
 マッドジョーカー軍曹の表情がかすかに変わった。
「シナーズねえ。広場の噴水にある彫刻の化け物じゃあねえか。それがこの街にいるって?」
「そう! 本当にみたんだよ! なんであんなのがいるのかわかんないけど……」
 マッドジョーカー軍曹が掃除の手を止めてトレイシーに言った。
「その『なんで?』は突き詰めると危険だぞ二等兵。APFがあてにならねえなら、あんまり妙な探究心を出さねえほうがいいな」
「でも! あんなのがいたら、今度も脱走できないじゃんか!」
 マッドジョーカー軍曹は吃驚した顔をしたが、直後に大笑いした。
「二等兵、おまえまだ脱走する気なのか? やめとけ、おまえは『脱走しようとしたから襲われた』とは考えねえのか? ここの罪獣は脱走者を見逃してくれるほどお優しくはねえと思うぞ」
「店長(サー)、なにか知ってるんですか?」
 トレイシーが神妙な顔で言った。
「俺にはいえねえことばかりだな。いいから牛乳配達いってこい。ここの連中はカルシウムが足りなすぎるんだ。昨日も店で騒ぎ起こしやがって――」
 マッドジョーカー軍曹がぶつぶつと恨み言を言い出したので、釈然としなかったものの、トレイシーは朝の配達に出た。 



 トレイシーが大通りに出ると、街で喧騒が起きている。罪人たちを集めた住人なので、皆気性が荒っぽい。毎日いたるところで人が殴られたり、殺されたり、犯されたり、薬物をキメたりしている。トレイシーはいつものルートで配達を終えると、店への近道である裏通りに入った。
「……」
 物乞いらしい少女が顔を隠すように毛布に包まって、路地裏に膝を抱えている。顔を伏せているが美しい少女で、長い金髪を結わえ、小作りな可愛らしい顔をしている。服装は白いワンピースを一枚を羽織っているだけだった。腕とワンピースの隙間から小さな胸が見え、こんな格好で路地裏にいるのはとても危険なことに思える。トレイシーの耳に、少女のおなかの虫が鳴くのが聞こえた。
「おまえ、腹へってんのか?」
 トレイシーはぶっきらぼうな口調でそういうと、革鞄からビンに入った牛乳と、フルメタルジャケットで売っているバランス栄養食のバーを少女に手渡した。
 少女はびっくりしたようにトレイシーを見て、あわてて食べ物を受け取った。それを子供らしい必死さで平らげると、我に返ったように再びトレイシーを見る。少女は足元にあった小石を拾うと、路地裏の壁に『ありがとう』と書いて、天使のように微笑んだ。
「いや、そんな、おおげさだな」
『しゃべれないの』
「!! ……そうなのか。今ので足りたか?」
「……!!」
 少女のおなかの虫がまた鳴いたので、トレイシーはくすりと笑った。
「店で一食おごってやるよ。 一緒にきな」
 トレイシーはそういうと、緊張気味の少女の手をひいて、バイト先のフルメタルジャケットへ戻った。



 メアリにフルメタルジャケットで食事を与えると、トレイシーはマッドジョーカー軍曹に断わりをいれ、APFの事務所にメアリを連れて行った。迷子かもしれないと思ったからだ。
「迷子――ではないね。登録されてないみたいだ」
 少女はグレアムの隣の椅子に座って、きょろきょろと辺りを見回している。
「この子、どうなるんだ?」
 トレイシーが心配そうに続けた。
「そうだね。APFが面倒見ることになると思うけど――」
「グレアムが?」
「まあ、こういうのは新入りの僕の役目だろうね……」
 それをきいた少女が、グレアムの手をとった。
「?」
『おにいちゃん』
 少女はグレアムの手のひらに、指でそう文字をつづった。そして、トレイシーを見てなにかをまたグレアムの手に綴ったようだった。
「はあ。なんか、店で見た君とジェットが仲のいい姉弟だったからうらやましかったんだって。それで僕を『おにいちゃん』だと……ってええっ!?」
 グレアムが驚いて立ち上がった。少女はグレアムを見てニコニコしている。
「ハハハ、いいじゃん。おにいちゃん頑張れよグレアム。ところで、この子、この街でこの格好は危ないと思うんだ。着替え持ってない? うちはジェットの男物しかないからさ……」
「ちょっと待っててくれ。たしか倉庫に服があったような」
 グレアムが盲導犬のパウエルを連れて倉庫へいくと、服を持って戻ってきた。トレイシーが着替えさせると、なぜか黒いゴシックロリータ服。少女にとてもよく似合っていたが、トレイシーは釈然としない顔でグレアムを見た。
「なんでこんな服が事務所に……」
「しるか!所長の趣味だよ。断じて僕の私物じゃない」
 グレアムがトレイシーの非難がましい口調を断じるようにいった。
『ありがとうおにいちゃん。この服とってもかわいい』
 少女はその服を気に入ったようで、天使のように微笑みながら、グレアムの手のひらにお礼を綴った。
「君、なまえは?」
 グレアムがそう聞くと、少女の表情が曇った。
『番号しか知らない』
 少女はそうグレアムの手のひらに綴ると、黙ってしまった。トレイシーは事務所にあった何気ない雑誌に、イギリスのセント・メアリ・ルボゥ教会の鐘の記事があったので「綺麗な時計塔だろ?」と励ますように少女に見せた。少女は目を輝かせて、メアリ、という単語を指で指した。
『名前、メアリ、がいい』
「メアリ、メアリが君の名前でいいのかい?」
 グレアムがそう聞くと、メアリがうなづいた。
「さっき雑貨屋でこれ買ったんだ。メアリが欲しそうに見てたからさ」
 トレイシーは雑貨屋のクラフト袋から、ウサギのぬいぐるみを取り出してメアリに渡した。メアリの表情がぱっと輝く。
『この子はダニエル。ウサギのダニエル』
 メアリが嬉しそうに、トレイシーの手のひらにそう綴ると、トレイシーも満足げに微笑んだ。
「そうかそうか。ダニエルやるから、おにいちゃんと仲良く暮らすんだぞ。それじゃ、あたしは店に戻るから――」
「お、おい待て! 僕だけに面倒見させる気か? 拾ったんだから君も責任を持てよ」
 グレアムがしどろもどろになってトレイシーにいった。女の子の扱いは苦手らしい。かといってグレアムの性格からしてメアリを浮浪児といって見捨てることもできないだろう。トレイシーが応えた。
「じゃあ二人で面倒見るってか? それも変な話だぞ」
「その変な話を持ってきたのは君だろう!」
『ごめんなさい、わたしのせいで…』
 グレアムとトレイシーの二人は、メアリのしょぼんとした顔にはっとなって言い争いをやめた。
『でも私、おにいちゃんとおねえちゃんを守れるよ』
 メアリはそうトレイシーの手のひらに綴るとにっこり笑った。
「守るって――?」
 トレイシーがそういいかけた時、心臓が凍りつく威圧感に口が利けなくなった。
「取り込み中のようだが――その少女をこちらに渡してもらえないだろうか」
 背後で低く響いた声。振り向くと、そこらに手配書が張られている人喰男爵のアリスが立っていた。後ろには大勢の部下が控えている。不気味なくらい丁寧な物腰だが、内に秘めた獰猛な気性がにじみ出ている。トレイシーの額に冷や汗が流れた。しかし、グレアムを見るとどこか平然とした顔をしている。盲目なのでアリスの異様さがわからないのだろうか。
「渡すってどういうことだよ」
 トレイシーがやっと言葉を搾り出した。アリスは口元だけで微笑んで続けた。
「そのままの意味だよ。その少女の面倒は私が見よう。そのことで先ほど彼と揉めていたではないか」
 アリスが親切な言葉を口にしたが、威圧感は変わらない。トレイシーは全身に汗をかいていた。
「ダメだ」
 グレアムがきっぱりと言った。
「街の中でも再犯を繰り返す重刑者に、子供を預けるわけにはいかない。帰ってくれ」
 グレアムは臆面もなくアリスに言い放った。
「ほう……?」
 アリスの部下でも気圧されるような存在感に動じていないのはグレアムだけだった。メアリは下を向いて震えている。トレイシーは冷や汗をかいて頭がくらくらした。捕食者と対峙しているようだった。
「ここから消えろっていってるんだよ」
 グレアムがアリスを睨み付けた。トレイシーは驚き、グレアムのどこにそんな度胸があるのかと肝が冷える思いだった。
「女性の前だからと頑張らなくてもよいのだよ。拒否されると力づくになってしまうが――」
 アリスはそういうと、改造銃を仕込んだ杖に手をかけた。それを見た瞬間メアリの目の色が変わる。
 メアリはその場から跳躍し、ゴスロリ服の袖から刃物のような武器を練成した。それが翼のように広がり、刃が一斉にアリスに襲い掛かる。アリスはその刃の数々を無数のメスを投擲して弾き飛ばすと、口元だけでにやりと笑った。
「命拾いしたなおまわり君。メサイアに感謝することだ」
 幾分かの刃がアリスの身体を貫き、出血していた。メアリは大鎌を練成するとアリスにふりかぶった。アリスは杖に仕込んだ散弾銃で応戦し、大鎌の刃を破壊。その隙にメアリはふたたび翼のように広がった刃で広範囲を攻撃した。
 建物や広場が刃で破壊されてゆく。アリスも受け止めそこなった無数の刃による攻撃を身に受け負傷していた。足元に血だまりを作っている。メアリもアリスの散弾を浴びて満身創痍、肩で息をしていた。
「そんなに消耗していいのかな? 君の罪は罪獣が背負うことになるぞ」
 その直後だった。上空からシナーズが現れ、広場に土埃を上げて着地すると、遠巻きにアリスとメアリの戦闘を見ていたアリスの部下たちを襲いだした。
「あ、あれ――!! 私が見た化け物だよ!」
 トレイシーがわけもわからぬまま叫んだ。シナーズは機械の装甲でできた鋏でアリスの部下たちを切り裂いてゆく。広場はあっという間に血の海になった。その中にぽつんと立つメアリ。
 メアリの負った傷は、シナーズが人を殺す毎に再生されてゆき、シナーズが暴れ終わるころにはメアリの傷は完治していた。
 メアリは返り血を浴び、さながら殺戮の天使となって広場の中央に一人立っている。同じく返り血まみれのシナーズは、メアリにひざまづくようにこうべをたれた。噴水の音だけがあたりに響いている。その光景は、噴水の彫刻に彫られた少女メサイアと、罪の獣シナーズそのもの。トレイシーは唖然としてそれを見ていた。
「シナーズによってエネルギーの補充を終えたか。メアリ……メサイアは、シナーズと連携した生体兵器だ。君たちはとんでもないものを拾ってしまったな」
 アリスは血まみれの姿でにやりと笑うと、その場から姿を消した。


第3話 人喰男と拷問男

 夕方。トレイシーはウエイトレスのバイトを終えると、メアリの様子を見にAPFの事務所に来ていた。
「なあグレアム。お前、怖くないのか?」
 グレアムはあんなことがあったのに平然としている。まるでメアリやシナーズがどういうものだかはじめから知っていたかのようだった。
「怖い? いや余計に人喰男にメアリを渡してはいけないと思ったよ。今回はやられたのが人喰男の手下の悪党だったから良かったけど、今日みたいなことがあって、住人を狙われたらと思うとね……」
 グレアムの言葉はどこかセリフがかっている。
「そうじゃなくてさ、それも大事だけど、おまえは人喰男とか犯罪者が怖くないのか?」
「怖くないよ」
 グレアムはきっぱりと言った。
「犯罪者は日々を働き学んで生きることを放棄して、奪う側に回った連中だ。僕は奪われる側の人間のために警官になった。そんな僕が犯罪者を怖がったらおかしいだろう?少なくとも相手が強い犯罪者だからといって、怯えたり負い目を持つなんてばかげている。悪党の強さなんて、不法な手段を持って作られた唾棄すべきものなんだから」
 正義感の強いグレアムは、犯罪者としてこの街にいる私のことも内心では嫌いなんだろうなと思いながら、トレイシーは話を聞いていた。
「ああ、君のいうことは信じてるよ。冤罪でここに入った一般人だってことはね。自爆しないってのもあるけど、脱獄にかけるエネルギーがものすごいから。しかもそれをする理由が――ルッケンバックに帰って牧場をやりたいんだっけ? 動機が牧歌的すぎるんだよ」
 グレアムが微笑んで言う。トレイシーは顔を赤くした。
「なんだよ! ばかにすんなー!」
 トレイシーは憤慨して応えた。
「馬鹿にしてないよ、立派な夢だと思うよ。僕はそういう人たちの夢を守るのが仕事なんだ。でもただ正義感が強いだけじゃ、しょうがないからね。正しさはそれ以上の力を持たない。道から外れたものと戦うには、自分も道から外れる必要がある。僕は人に言えないけど、そのためにしていることが色々あるのさ。それが理由でここに飛ばされたようなもんだよ」
 グレアムは言葉を選んで話していたが、トレイシーにはなんとはなしにグレアムの言ってることがわかるような気がした。正しいだけでは限界がある。トレイシーは今まで悪いことには手を出さないように生きてきたつもりだったが、気づけば冤罪にかかり今にいたるわけなので、正しく生きていれば報われるわけではない。
「メアリのことだけどね。上には伏せておこうと思うんだ。僕が個人的に家でかくまうよ。そのほうがメアリにとっていい気がする」
 トレイシーはそのことについては同感だったのでうなづいた。
「人喰男がメアリのことをシナーズと連携した生体兵器って話していたろう? メアリの素性はこの街の機密に繋がっているんだ。メアリが逃げてきた出所がAPFの機関である可能性が高い。君が僕に話しかけてきたのは幸いだったよ。ほかの職務に忠実なやつだったらメアリは施設に逆戻りするところだった」
 メアリは返り血を流す為のシャワーを浴び終え、グレアムの傍に座っていた。グレアムの足元に座る盲導犬、パウエルの頭を撫でている。
「もう今日は遅いから、帰り送っていくよ。君は無用心すぎるな」
 グレアムはそういうと、トレイシーを自宅まで送っていった。
「あのさ」
トレイシーがグレアムの顔を見た。
「今日はありがとう。メアリのこととか大変なこと任せちゃってごめん」
「なんだい急に。君に困らせられるのは慣れてるからいいよ」
「メアリのこと、よろしく頼む。私も協力できることはするから」
 トレイシーはグレアムに頭を下げた。
「ありがとう。じゃあ僕も、君たちみたいに仲のいい兄妹気分を味わおうかな。一人暮らしだから張り合いが出たよ」
 グレアムはそういって笑うと、事務所に戻っていった。



『グレアム? キンバリーよ。シナーズが監獄街に出たそうね。討伐を早めて頂戴』
「了解。メサイアを確保したんですが、少女でした。処置はしません。いいですね」
『生きてればいいわ。ほかの勢力に渡さないようにね』
「了解。いまからシナーズ討伐に向かいます」
 祖国からの通信だった。グレアムはトレイシーと別れると無線をとり、無表情で応答を済ませた。
 部屋で着替える。白と銀のトライバル模様の施されたボンテージ風の格好に、白いキャップをかぶった。化粧を施した血色の悪い顔に黒いルージュを引く。指先には鋼糸。機械製の不気味な操り人形『バヨネット君』。
 その顔は、街に無数に貼られているAPFの警告書に記載された、監獄街アルカトラズの私刑執行人・拷問男だった。足元には同じく拷問犬パウエルが続く。
「いくぞバヨネット君」
グレアム――拷問男が向かったのは、シナーズが眠るAPFの施設だった。



APFの施設には人喰男のアリスがおり、シナーズと戦闘を繰り広げている。銃撃戦だった。そこに割ってはいるかのように、幻影で巨大化した機械人形・バヨネット君が現れ、巨大な刃を振るう。シナーズはバヨネット君の刃を鋏で受け止めると、もう片方の手ではじき返した。
 拷問男は銀の輪を取り出すと、ライターで炎を点した。瞬く間に炎の輪となり、拷問男が手を叩くと、銀色のサーベルタイガーが三頭、炎を潜って輪の中から姿を現し、シナーズへ向かっていった。銀色のサーベルタイガーはシナーズに襲い掛かると、鋭い牙で装甲をへこませてゆく。その隙に、機械人形のバヨネット君による剣(つるぎ)の舞が行われ、シナーズの片腕を破壊した。
 杖に仕込んだ改造散弾銃でシナーズに銃撃を浴びせながら、様子を見ていた人喰男が拷問男に拍手を送った。
「拷問男か。たしか君とは昼間に会ったね? 勇気あるおまわり君。トリッキーな戦い方をする――」
「うるせえぞ人喰男。シナーズは僕の獲物。私刑執行の邪魔をするな。僕の正義だぞ」
 拷問男が睨み付けると、人喰男が口元だけで笑った。
「正義? 正義など盲信しているのかね、君は。人のため、正義のために戦った罪はどうなる? 守るべき人々が君の罪を負ってくれるのかね?」
 人喰男が歌うようにいった。
「黙れ悪党! 善悪の境界のない曖昧な世界はさぞかし快適なことだろうよ。道徳も学ぶ気がねえのなら一生そのゆりかごのなかで暮らせ! 人様に迷惑をかけねえでな!」
 拷問男が銀色の鋼糸をはためかせると、バヨネット君が目にも留まらぬ早業でシナーズに斬撃を叩き込む。シナーズの鋏による攻撃を、拷問男はバネ仕掛けの人形のような跳躍力でかわし――バヨネット君の巨大な刃でシナーズが真っ二つになる。
「提案があるんだが。拷問男よ」
「あん? 聞くだけだぞ」
 拷問男が不快そうに、整った眉をしかめた。
「私は生体兵器のメサイア――メアリを狙っている。だが、君が破壊したがっているシナーズも欲しい」
「欲深いな。悪党らしい野郎だ」
「そこでだ。メアリを見逃す代わりに、シナーズを私によこせ。なに、APFがシナーズになにをしていたか解析するだけだ。君がAPFに義理立てする必要はないはずだろう。なんせ君は祖国のフィンランドからここに送られてきた特別捜査官だからね」
「こっちのことは調べやがって、いやらしい野郎だぜ。だがいいだろう。メアリに手を出さないと誓うなら。危険度でいえばメアリのほうが上だからな。お前はシナーズで我慢しとけ」
 拷問男は吐き捨てるようにそういうと、サーベルタイガーとバヨネット君を霧の様に消し、指先から鋼糸を出すと、天井の天窓をくり貫いて跳躍し、姿を消す。
「ではシナーズはいただいていこうか」
 アリスは、真っ二つになってもなお暴れるシナーズに改造散弾銃で止めを刺し、部下に解析設備のある屋敷までシナーズの死体を運ばせた。



第4話 心電音感射手

 シナーズへの解析から、以上のことがわかった。
 シナーズはメサイア(メアリ)という名の少女と提携している生体兵器だということ。メサイアが体力的に消耗すると、シナーズが罪人を殺して生体エネルギーを奪い、メサイアに補填すること。シナーズが人間を襲うことによって、メサイアから無限のエネルギー磁場が発生していること。
「最近発表された化石燃料に変わる新エネルギーとはこのことか――」
 アリスは屋敷の研究所で思案顔になった。横で見ていた部下のクライドが口を開く。
「この街全体が、メサイアからエネルギーを採取するための装置、ということですかボス」
「そうだ。メサイアはこの街の、エネルギー磁場採取設備のある環境下でしか生きられない。メサイアが生きるためだけに『街』というシステムが存在するようなもの。世界各国から集められる罪人は、全てメサイアのエネルギー源、シナーズの餌というわけだ。定期的に集められる殺してもいいエネルギー源をと考えて、世界中から集まる罪人に行き着いたんだろう。表向きは、大規模な罪人の更正施設、ということにしてな」
「胸糞の悪くなる話ですね」
 全身をオーダーメイドの白スーツ、洒落た帽子で飾り、くすんだ金髪を結わえたクライドが、鋭い双眸に嫌悪を浮かべて言った。
「だが人類にとっては、まさに救世主(メサイア)だ。無限のエネルギーを発生する少女。世界中の罪人を犠牲にしても実験する価値はある、ということだろう」
 アリスはそういって書類をまとめた。
「この街の秘密はこれだけではない。これから行われる罪人を使った『実験』についても調べる必要がある。だがそれは、今日出会った拷問男やほかの国から送り込まれている調査員のほうが詳しいだろう。情報が集まった頃合をみて、調査員を拉致して情報を得よう」
「拷問男を始末しなかったのは、泳がせて情報を得るためですか?」
「そうだ。やつは祖国から特別捜査官として街に送り込まれているものだからな。預けてあるメアリから勝手に情報を採取するだろう」
 アリスはまとめた書類を封筒に入れると、クライドに手渡した。
「お前に頼みたい任務がある。これをもって祖国イギリスに渡り、この件が終わるまでエリザの護衛をしてきてほしい。この件の真相を取り扱う政治家なので、各勢力から狙われている。お前の腕なら安心だ」
「わかりましたボス。ご期待に沿えるように善処します」
 クライドが丁寧すぎるくらいの口調で頭を下げた。



 イギリスは首都ロンドン。オールドベイリー(中央裁判所)の正義の女神像が見渡せる場所に建てられた、バラ園のある邸宅にクライドは来ていた。
「そうですか。あの人が――。私なにも言ってないのに」
 エリザは封筒を受け取ると、恐縮したようにクライドに頭を下げた。綺麗な応接間に、紅茶とお茶菓子、軽食のサンドイッチと野菜のキッシュが並べられている。長旅でやってきたクライドに対する、エリザの心のこもったおもてなしだった。
「ボスの生きがいはあなたを助けることですからね。もちろん、これは無記名の意見書や情報源、ということにしておいてください。ボスが率いるカンニバルコープスという悪の組織があなたに関わっていることなど世間に知られたらことですからね」
 クライドは一礼して、出されたサンドイッチを食べた。手作りらしく、とても美味い。出された紅茶もサンドイッチに良く合う銘柄だった。
「でもあの人は、私の育ての親です。私が政治家を志してから、あの人は自分の存在が仇になると、英国から出て行ってしまいました。でも私は、ビッグベンの鐘の音を聴くたびにあの人を思い出すんです」
「ほう。鐘の音でボスを?」
 クライドが興味深い、といった様子で相槌を打った。
「はい。時計塔の鐘は、人間の時間、命を祝福するものです。あの人は悪の道に生きながら――英国の人間を助けることを目的にし、手段を選ばず行動しています。子供のころにあの人がいいました。『わたしはあの無数の鐘の音色の一つであればいい』と。それ以来、ビックベンの鐘を聞くと、あの人を思い出すようになりました」
 エリザが美しい双眸を、ビッグベンの時計塔に目を向けながら言った。エリザは金の巻き髪に、清潔感のあるシルクのシャツにスカーフ、膝丈のスカートというシンプルだが上品な格好をしている。物腰やわらかく丁寧で、立ち振る舞いから気品が滲み出ていた。
 あの人とよばれた――黒ずくめの紳士服に身を包み、威圧感を周囲に与える人喰男爵アリスとは対照的な女性だった。
「なるほど。ボスもいっていましたよ。オールドベイリーの正義の女神像を見るとエリザを思い出すと。二人とも象徴的なものをお互いに見出しているのですね」
 クライドはそういうと、エリザの護衛の話をした。
「護衛――ですか。でもこの屋敷は全て防弾性の設備をしてますし、バラ園も防弾ガラスで囲んであります。大丈夫だとは思いますが――」
 エリザは不安げな表情でクライドを見た。クライドはエリザの様子を見て優しく微笑んだ。
「念のためです。近年では防弾ガラスもものともしない威力の改造ライフルも出回っています。そういう連中と渡り合えるのは、ただのボディーガードではなく、同じ暗殺者で狙撃手である俺が適任なんです。「俺だったらどう殺すか」という視点で同業者からあなたを守れるので、人を殺しなれていないボディガードよりは確かなはずですよ」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
 エリザがたじろいだ。
「いえ、おどかすつもりはなかったんですが。そうですね。俺だったら、やはりバラ園を狙うでしょう。防弾ガラス一枚ですし、定期的にあなたがバラの世話をしにくる。格好の狙い目ですね。だからあなたを囮にするようで気が引けますが、いつもどおりバラの世話をしてもらいます。狙ってきた者を返り討ちにしてやりますよ」
 クライドが銃の装備をしてウインクして見せた。



 三時。エリザがバラ園でバラの世話をする時間帯だった。クライドは庭園の椅子に座り目をつぶって音楽を聴いている。ヘッドホンの中の音は無音だ。音はクライドだけに聞こえている。クライドは相手の心音が音楽に聞こえる特殊な絶対音感を持っていた。その音を感知する弾丸を作り、心臓を逃さず狙う狙撃手だった。
「不愉快な心音が聞こえてきたぜ。だが狙い通りのやつがきたな」
 クライドは相手の写真を見ただけで心音を特定できる。事前にアリスから渡された資料をもとにめぼしい弾丸は作ってある。
 その瞬間、銃声が響き、クライドの胸に銃弾がめり込んだ。二発だった。
「クライド!」
 エリザが叫ぶ。クライドは人差し指を口元に当てて、しゃがみこんだ状態から立ち上がった。
 これを打ち込んできたスナイパーは、二発まったく同じ場所に射撃している。防弾チョッキもあと少しで貫通しそうだった。かなりの腕前である。
 クライドは庭園から出ると、着弾した位置から方向を割り出して狙撃手に向けて、自身が改造したエレクトリカル・ライフルで狙撃した。
「―――ッ」
 相手の心音が途切れかけたが、防弾チョッキなどで防護しているらしい。相手の心音が鳴り続けている。クライドが弾を確認すると数発の弾のストックはある。クライドは、相手の装備を考えて、今度は五発連続で狙撃した。相手がいくら分厚い防弾装備でも、改造ライフルの弾を五発同じ位置にうけて無事なはずはない。
「♪♪♪♪♪♪―――」
 クライドがある旋律を口ずさむ。相手の心音のメロディだった。相手はまだ生きている。
「忌々しいメロディだぜ。さっきので、心音誘導弾は全部つかっちまったな」
 クライドはそういうと、無線を傍受しているのに気がついた。無線に出る。
『元気か?スポット・バースト・ショットもどきの小手先に頼る臆病野郎。お前は技術に頼って、肝心の狙撃能力はいまいちのようだな。だからこうして俺が生きている。お前の心臓を狙える妙な弾が尽きてからが本当の勝負だぜ。狙撃手同士の勝負だ。乗るか?』
 クライドは無言でエレクトリカル・ライフルをぶっ放した。
『オーケー。やる気まんまんじゃねえか』
 そういって無線は切れた。
 次の瞬間クライドの右手に鉛弾が着弾した。血が噴出する。
「ざんねん。俺は両ききなんだ」
 クライドは左手でライフルに通常弾を12発装填し、改造したエレクトリカル・ライフルで12発を同時に放つ。
「見えたぜ。死線《キルゾーン》が」
 改造ガンによるゲット・オブ・トゥエルブショットだ。12箇所の急所に同時に打ち込む人間離れした射撃技。
「――」
 相手のUKロックもどきの不協和音が聞こえなくなった。
「仕事中によく喋るやつは嫌いだぜ、クソ野朗。お前の心音もクライマックスはまあまあ聴けたぜ」
 クライドは弔いのつもりか、殺した狙撃手の心音のメロディのサビを繰り返し口ずさみながら、エリザの庭園に戻った。



「血が出てますよ、大丈夫ですか!?」
 片腕と胸から血を滲ませたクライドが庭園に戻ってきたので、エリザは驚いて駆け寄った。
「手当ての腕が鈍るといけないんで自分でやりますよ」
 そういってクライドは自分で手当てを始めた。
「あの、今ので――終わりでしょうか?」
 エリザがおずおずとクライドに尋ねた。
「いえ、まだ8人くらいあなたを狙ってるやつがいますね。残りの8人を血祭りに上げるのが俺の仕事です」
 エリザが苦笑いで、よろしくお願いしますと頭を下げた。



「ボス宛に小包が届いていますよ。クライドからです」
 アリスが小包を開けると、超小型のテープと給水の処理を施された一輪のバラが入っていた。エリザの育てたバラだった。アリスがテープを再生すると、ビックベンの鐘の音が再生された。
「久々に聴いたな。ビックベンの鐘の音――何十年ぶりだろう」
 エリザの育てた美しいバラを眺め、珍しくアリスは微笑んでいた。


第5話 紅の暗殺者

「おいでフィオナ」
 高級娼婦のフィオナは監獄街の管理者とベッドの中で行為に没頭している。管理者は汗に濡れたフィオナを自分の身体に抱え上げ、豊かな乳房を弄びながら言った。
「パパの話をきいてくれるかい」
「うん、いいよパパ」
 フィオナは時折嬌声を上げながら、惚けた表情でうなづいた。
「この少女をこの男から取り戻してきて欲しい。APFの人間でありながら背信行為をしたけしからんやつだ。ベッドに連れ込んで、フィオナの好きなことをしてもいいよ」
「そしたらしんじゃう」
「それでいいんだよ」
 フィオナは首をかしげたが、「お仕事……」とつぶやくと頷いていた。
「その仕事が終わったら、お前の本当の父親に会わせてやろう」
 呼吸もできないほど激しく責められているフィオナの表情が明るくなった。
「本当のパパに?」
 管理者はにやりと笑って続けた。
「いつもフィオナに手紙をよこしてくれる優しい軍人のパパ。フィオナのパパは、実はもうほんの近くにいるんだよ」
「ほんの近くに?」
「そう。でも毎晩こんないけないことをしているフィオナを本物のパパは許してくれるかな?」
「やだ、いじわるいわないでパパ――」
 夜更けまでフィオナと管理者との行為は続く。管理者の机の上には、グレアムとメアリの写真が乗っていた。



 朝、トレイシーとジェットがあくびをしながらバイト先のフルメタルジャケットに
やってくると、そこには見慣れない車椅子の少女がいた。年のころはトレイシーより少し下だろうか。腰まである長く美しい黒髪を赤いリボンで結わえ、露出度の高い赤いワンピースを身に纏い、首元には革のチョーカー、耳元にはしずく型の小さなイヤリング、足元は赤いピンヒール。褐色のグラマラスな身体とは裏腹に、顔つきが幼い蟲惑的な美少女だった。外に飾られているレプリカのメニュー表をじっと眺めている。
「お客さん? まだちょっと早いよ。5分くらい待てる?」
「フィオナ、アイス食べたい!」
 トレイシーは微笑む。店の制服に着替えて戻ってくるうちに五分がたち、店の中にフィオナを案内した。席に着くと、フィオナが無邪気に叫ぶ。
「アイス!」
「了解。ご注文、爆撃アイスですね。承りました」
 トレイシーはそう答えると、爆撃アイスを持って戻ってきた。フィオナは嬉しそうに、爆撃が落ちたような形のアイスを食べている。
「フィオナ、お金ないよ」
「えっ!?」
 トレイシーがアイス代をおごることになった。一緒に店の外に出るとフィオナがニコニコしてトレイシーの手を握った。
「トレイシー、好き!アイスありがとう!」
「えっ!? あ、ありがとう……」
「この人知ってる? あとこの子」
 フィオナが二枚の写真を出してトレイシーに尋ねた。
「グレアムとメアリじゃんか。なんか用なの?」
「うん、忘れちゃった。会えば思い出すと思う。フィオナいちどに三つのことしか覚えられないの」
 トレイシーはそれは難儀だなあと思いながら、マッドジョーカー軍曹に断わりを入れ、フィオナをグレアムとメアリの元へ連れて行った。



 APFの事務所にいくと、グレアムは事務仕事、メアリは玄関の掃除をしていた。
「ようグレアム、メアリ。この子フィオナっていうんだけど、二人に用があるみたいだよ」
 トレイシーはそういうと、グレアムは首をかしげた。
「フィオナ? 初対面のはずだけど、僕とメアリになにか用かい?」
「グレアムと、ベッドでフィオナの好きなことしていいって言われたの思い出した!」
 トレイシーが目を丸くして、グレアムを見た。
「へえ。おまえらそういう関係だったんだ。グレアムにこんな可愛い彼女がいたとはね。馴れ馴れしくして悪かったなグレアム。でもお前も人に世話焼きすぎなんだよ。じゃあな!」
「えっ!? ちょっと待てよ、トレイシー!」
 トレイシーは突然機嫌を悪くして、駆け足で店に戻ってしまった。フィオナはそれを不思議そうに見ている。
「あとね、メアリを取り返してこいって」
 フィオナがあどけなくいった言葉に、グレアムが冷徹に反応した。
「――なるほど。APF上層部の刺客のようなものか。メアリを取り返す為に、僕を篭絡して殺せとでもいわれたのかい?」
「むずかしいことわかんない」
 フィオナが無邪気にいったが、グレアムは「メアリを渡すわけにはいかない」と応えた。
「大事な妹だからね」
 フィオナは黙って聞いていたが、車椅子から立ち上がって、グレアムにすらりと長い脚で蹴りを入れようとした。それを右手でガードするグレアム。
「場所を変えようか。僕は今仕事中なんだ。夕方に裏通りから入れる地下劇場がある。そこで待ち合わせようじゃないか。どうせ暗殺者かなにかの類だろう。そこで相手してやるよ」
 グレアムが氷のような目つきでフィオナに言った。
「わかった。フィオナ先にそこにいる。にげないでね」
 フィオナは微笑んで言ったが、目は笑っていなかった。
「それはこっちのセリフだ。どうなっても後悔するなよ」



 夕方、フィオナが廃劇場の観客席に静かに座っていると、薄汚れた舞台の上に一人の男と犬が現れた。男が指をパチンと鳴らすと、機械人形のバヨネット君が上空から鋼糸のあやつり糸にぶら下がって姿を現した。傍らにはぬいぐるみのダニエルを抱えたメアリが佇んでいる。古いスポットライト、拷問男とバヨネット君を照らす。
「わあ〜!」
 観客席に一人だけいるフィオナが拍手を送る。フィオナは拍手が終わると共に、車椅子から跳躍した。車椅子に隠し持っていたアサルトライフルを両手に持ち、拷問男に向かって攻撃する。
「やる気まんまんだな!」
 拷問男はバヨネット君を操り、巨大な刃で弾丸を弾きながらフィオナに斬りかかった。腕を負傷したフィオナは傷口の血を口に含むと、血霧のように拷問男の目前に噴出した。
「血中に毒が――!?」
 拷問男がひるんだ瞬間、フィオナが拷問男の唇にキスをした。舌を入れて唾液を流し込む。拷問男の意識が次の瞬間ぐらぐらと酩酊し始めた。
「なるほど、体液に毒が仕込まれてるのか。お前に篭絡されると体液に触れて死ぬってわけだな。暗殺者らしい女だぜ――」
 拷問男が片膝をつくと、メアリがぬいぐるみのダニエルを持ったまま宙に浮く無数の刃を翼のように広げ、フィオナに向かって投擲した。フィオナは持っていた銃でそれを弾くが、無数の刃の嵐に囲まれて、体中を負傷し全身から血を流していた。
「その血に触れるなよメアリ。猛毒だ」
 ふらつく意識のなか、拷問男はバヨネット君でフィオナにとどめを刺そうとした。
「なんだ、メアリ。殺すなって――?」
 メアリがフィオナの前に立ちふさがって首を振っている。メアリはフィオナの手のひらをとって何か文字をつづっていた。
『おにいちゃんを傷つけないで』
 フィオナは無言でメアリの顔を見つめた。メアリは真剣な目でフィオナを見ている。
「? よくわからんが、メアリのおかげで命拾いしたな。さっさと消えろ」
「……」
 フィオナは無言で拷問男とメアリを見ると、全身の傷を押さえて、よろめく足で立ち上がると車椅子に乗って黙って立ち去っていった。フィオナは遠くなる意識のなか、信頼関係について考えていた。



 フィオナは管理者とベッドの中にいた。傷ついた身体は手当てされてはいたが、行為の真っ最中で、管理者はフィオナの失敗を感づいているかのようにフィオナの豊満な身体を、汗だくになるまで責めさいなんだ。
「二人を引き離すのは無理。信頼関係がある」
 フィオナは、はあはあと息を荒げながら、拗ねたようにそういった。
「信頼関係……?」
 管理者はフィオナの汗ばんだ豊かな乳房に顔を埋めながら、不快そうに眉をひそめていった。
「――信頼。フィオナとあなたにはないもの。あなたは自分以外が触ると死ぬ毒液をフィオナの身体の中に仕込んだ。フィオナはあなたのおもちゃじゃない!」
 フィオナがそういうと、管理者がフィオナを殴った。
「私をパパと呼べといっているだろう! 人形が生意気に――本物の父親に会いたくないのか!?」
 フィオナがぽろぽろと涙をこぼした。管理者がフィオナの涙をべろりを舐めると、汗で濡れた身体を羽交い絞めにして、豊かな乳房を指で弄ぶ。
「パパに会いたい――本物のパパに――んんっ」
「どうしたフィオナ、こういうおしおきは大好きだろう?」
 フィオナの悲痛な言葉をかき消すように管理者の舌がフィオナの口に入ってくる。
「次の仕事はな、お前の本当の父親に会わせてやる。お前の本当の父親の、マッドジョーカー軍曹を殺すのがお前の仕事だよ」
「マッドジョーカー軍曹――」
 管理者のフィオナに対する陵辱は夜明けまで続いた。


第6話 ドイツの鬼札

 マッドジョーカー軍曹は、朝早くに手紙を書き、店から出てポストに手紙を投函する。生き別れの娘に当てたものだ。娘の存在を知ったのはカンボジアの祖国に帰ってしまった恋人と別れた後で、以来一方的に手紙を送り続けている。返事はないが、気にしたことはなかった。父親としてできることはこれしかなかったからだ。
 店に戻ると二等兵のトレイシーが、メアリとフィオナを両脇にはべらせたグレアムに食事を出していた。
「二等兵よ、そいつらがどういう存在がわかって関わってんのか?」
 トレイシーは不思議そうに首をかしげた。マッドジョーカー軍曹は店の陰にトレイシーを引っ張り込んで耳打ちした。
「この街が運営されてそろそろ三ヶ月か。話してもいい頃合だな」
「さっきからなんです、店長(サー)?」
 首をかしげるトレイシーに、マッドジョーカー軍曹が言った。
「まあ話半分で聞け。勤務にまじめなお前だから生き残って欲しいと思って話すが、この街はあと少しで地獄になる。お前が面倒見てるメアリってガキのためにな。あいつがなんだか知ってるか? 無限のエネルギーを生み出す生体兵器だ。殺そうとすれば、致死量のウイルスをばら撒き、辺り一体を死の海にする」
 トレイシーはぽかんとした顔でマッドジョーカー軍曹の顔を見ている。
「俺は祖国ドイツで薬品に詳しい軍人だったから、祖国からこの街の調査命令が出てここにきた。生体兵器のメアリが保持しているウイルスの調査などでな」
「メアリにウイルスが――」
「それだけじゃない。この街で出回っている食い物があるだろう? あれは全て幻惑剤が含まれた実験品だ。摂取し続けると体の組織が変質して、人を襲って喰う様になる。筋力や攻撃力が誇大し、恐怖や怯えが取り去られた最強の兵士を作るって実験だ。それと、なんでこの施設で嘘をつくと自爆するかわかるか?」
 トレイシーの顔色が変わってきた。
「今は嘘を感知し自爆する薬品しか作れていないが、そのうち反社会的な感情や反抗心などの複雑な感情を察知して自爆する仕組みを作りたい勢力がいるからだ。嘘はもっとも簡単な感情の働きだから、今回の実験に選ばれた」
「店長(サー)、この街はなんなんだ? そんな風に街を作って、一体なにが目的だっていうんだ?」
「ここはメアリから無限エネルギーを取り出すための採掘場だ。罪人どもを犠牲にしてな。罪人はエネルギー源のためにシナーズに襲われるだけじゃない。食事に薬物を混入されて、人間を食人鬼(グール)にして殺し合わせ、戦場で使える兵士たるかの生体実験も兼ねた後にシナーズに殺される。もしくは街のからくりに気づいて、メアリを殺そうとした瞬間に、致死ウイルスが発生して住人が全滅するという末路が待っている」
 マッドジョーカー軍曹がまじめな顔をしてトレイシーに言った。
「だから店長(サー)は、この店以外の戦闘糧食は食べるなっていってたんだな――」
「そうだ。戦闘糧食は世界各国の軍隊で作られたものをそのまま輸入している。俺が管理しているから、過程で薬品が混入されることはない。俺のいうことを聞いていてよかっただろう。まだ信じられねえと思うが、お前はよく働く二等兵だから忠告しておくぜ」
トレイシーは放心したようにマッドジョーカー軍曹の話を聞いていた。
「私はどうすればいい?」
「メアリを死なせねえこったな。死んで致死ウイルスが発生したらこの街の住人は全滅だ。俺は生物兵器や薬品兵器を悪用する連中を調べる為に祖国ドイツからアルカトラズに派遣された。俺が知ってるのはここまでだな。あとは街に食人鬼(グール)が溢れかえったときが問題だ。食人鬼(グール)より強いやつのそばにいて、祈るしかねえ。生き残れよ」
 マッドジョーカー軍曹にそう忠告され、頭が真っ白になったまま仕事に戻るトレイシー。この街の生活が終わる……?にわかには信じがたいし、考えられないことだった。
「トレイシー、どうしたの?」
 フィオナが客席からトレイシーの顔を覗き込んだ。
「そういえばフィオナは何のようで店にきたんだ? 忘れちゃったか?」
「忘れちゃった!」
 フィオナが無邪気に応えた。トレイシーはフィオナの笑顔を見て安心すると同時に、日常が失われることが急に怖くなった。フィオナに先ほどのマッドジョーカー軍曹から聞いた話を打ち明ける。
「フィオナはどう思う?」
 フィオナはポケーっとした顔で聞いていたが、最後は真顔になっていた。
「その話は誰から聞いたの?」
「店長(サー)だよ。マッドジョーカー軍曹」
「フィオナ思い出した。マッドジョーカー軍曹、本当のお父さん。そこまで情報を調べ上げられる人、管理者の邪魔になるから、フィオナが今日ころしにきた」
 フィオナの目の色が変わり、車椅子から立ち上がると、奥にいたマッドジョーカー軍曹に向けてアサルトライフルを射撃した。マッドジョーカー軍曹は戦いなれているのか、日常から戦闘への動作の切り替えがすばやく、フィオナに瞬時に応戦した。
「伏せろッ! 戦争だッ!」
 マッドジョーカー軍曹が客に叫ぶと、客が全員席に伏せる。
「パパをころす!」
 フィオナは人が変わったように獰猛になり、マッドジョーカー軍曹に襲い掛かった。
「おい娘! なんでお前はそうなったッ!」
 マッドジョーカー軍曹はガトリングガンで応戦しながら娘であるフィオナに呼びかけた。
「フィオナ、パパと別れたママがしんで、おばあちゃんにお店で売られた! 逃げられないように脚の筋を切られた! 客をとらされるようになった! パパからの手紙が来るけど、フィオナ文字読めないし返事もかけない! そしたら偉い人の相手をするようになって、パパからの手紙を読んでもらえるからいうこときくようになった! だから! いうこときかないとパパに会わせてもらえないし、手紙をよんでもらえないんだもん!!」
 マッドジョーカー軍曹は悲痛な表情で、いつしか涙を流して叫ぶフィオナを見ていた。
「娘よ。手紙は読まなくていい。もうすでに会ってるからだ娘よ。それに手紙は俺の無駄話しかかいてねえから読めなくても支障はねえ」
 マッドジョーカー軍曹はフィオナの放つ銃弾の雨に飛び込むと、自分が負傷するのもかまわず、フィオナからアサルトライフルを力づくで奪った。
「お前の敵はなんだ? 街の管理者か? 世界か?」
「ぜんぶだもん!! フィオナの世界はフィオナにひどかった!」
「よし!障害は全部俺がぶっ倒してやる。おかしな人間の言いなりになるのはやめろ。俺はお前に何も望んじゃいねえ。好きなように生きろ!」
「じゃあ私、パパの傍にいる!本当のパパの傍にいる!!」
「好きなだけいろ!」
「うわああああああん!!パパー!!」
 フィオナがマッドジョーカー軍曹に抱きついて泣き始めた。
「フィオナ、パパと信頼関係を築ける?」
「いい言葉を知っているな娘よ。だが親子ってのはもうそれがあるんだ。心配するな!」
 フィオナがにっこりと笑ったあと再び泣き始めた。トレイシーはなぜだか泣けてきて、「よかったなフィオナ」と声に出してつぶやいていた。対照的に、それまで話を聞いていたグレアムはフィオナの素性を知っているので、マッドジョーカー軍曹の身を案じ始めた。
「フィオナが従っていたという街の管理者に逆らうのは、この街では死を意味している。数日後の粛清実験を経て生き残りたかったら、お互いに知っている情報を出し合う必要があるな」
 グレアムとマッドジョーカー軍曹は、店の奥でしばらく話し込んでいた。
「僕はフィンランドから、あんたと似たような案件で派遣された特別捜査官だ。上司の知り合いで探偵をやっているやつがいて、そいつもこの街に潜伏しているんだが、街に食人鬼(グール)が発生するまで間もないはずだから、そいつにも連絡を取ってみようと思う。ジェイルというんだが、つかみどころのない男だ」
 マッドジョーカー軍曹は頷くと、所属していた本部に、アルカトラズで得た情報を送り、実験そのものを阻止できないかと働きかけているようだったが、外部の軍隊が動くことは難しそうに思われた。
「二等兵とその弟を頼むぞ。あいつは真面目な従業員でいいおっぱいをしている。こんな事で死なすにはむごい。冤罪というのも本当だろう。運のねえ二等兵だ。しかも、拷問男に惚れちまうとはな」
「あんた僕の正体を知ってたのか」
「何度か戦ってるのを見てな。二等兵もお前に説教された話しかしねえんだ。守ってやれよ」
「わかったよ。僕が生きている限り善処しよう。僕がなにかで死んだりしたら、あとは頼むぜドイツの鬼札(ジョーカー)」
「まあ、お互いにな」
 二人の男はにやりと笑って、フルメタルジャケットの奥で杯を交わした。 


第7話 ダイアル1800

 ジェイルはフルメタルジャケットで報告書を書いていた。浅黒い肌にサングラス、独特に刈り上げた頭、黒いシャツとサスペンダーにスラックスというラフな格好をしている。私立探偵、武装タクシーの運転手、情報屋をしており、すべてにおいてケチだが、ことに情報の売買にかけては法外な金額を要求する人物だった。
「眠い……」
 ジェイルはナルコレプシー症で気づくとどこでも寝てしまう。私立探偵という仕事の間だけでも寝ないように気をつけているのだが気を抜くとついうとうとしてしまうのだった。
「おまえがジェイルだな?」
 グレアムはジェイルに話しかけた。上司キンバリーの知り合いの探偵とのことだが、口を利くのはこれが初めてだった。というのも、ジェイルは普段変装していて、私服姿でうろついているのは今日が初めてだったからだ。
「おっ、キンバリーの部下のグレアムか。通信以外で話すのは初めてだな。はるばるこんな監獄くんだりまでご苦労なこった。俺に話しかけてきたってことは情報が必要なのか。どんな情報でもいいぜ。金は前払いでキンバリーからたんまり頂いているからな」
 ジェイルはそういうと、飲んでいた酒を飲み干し、追加の酒を注文した。
「単刀直入にいうと、この街の真相が知りたいんだ。僕は今メサイア――生体兵器の少女と行動を共にしている。この街がメアリからエネルギーを採取する装置だということは知っているが、それをしている勢力の目的などが知りたい。知らないまま食人鬼(グール)やシナーズの餌になって死ぬのはごめんだからな」
「勢力の目的ねえ。端的にいうと世界を支配したがっている連中がいるとだけいっておくぜ。この世界には二つの秘密結社がある。一つは人喰男の率いるカンニバルコープス、二つ目は、この監獄を造ったアウトレイジという組織だ。二つの組織は仲が悪くてね、長い間抗争を続けてきた。アウトレイジは支配階級を含んだ秘密結社で、裏からこの世界を支配しようとしているんだ。カンニバルコープスは裏社会が政治性を帯びないように監視し問題があれば制裁に乗り出す犯罪組織。まあこの二つが相容れるわけがないわな」
 グレアムはジェイルの真向かいの席に座って黙って話をきいている。
「カンニバルコープスがアウトレイジに悪事のしっぽを捕まれて投獄されたのがことの始まりだ。抑止力がなくなったことをいいことに、カンニバルコープスの連中をぶちこんだ巨大監獄アルカトラズを街に改造して、罪人たちを餌にしてエネルギーを無限に発生するメサイアとシナーズという生体兵器を作った。街にはメサイアとシナーズを維持するシステムを搭載させてな。そして三ヶ月の潜伏期間を経て、街に薬物実験で生まれた食人鬼が溢れれば、あるゲームが秘密裏で行われる」
「ゲーム?」
「支配階級による、罪人を使ったデス・ゲーム。誰が生き残るか、連中はコインを賭けて遊んでやがるのさ。アウトレイジはこの手のデスゲームを過去に何度も開催し、裏社会で賭けビデオとして販売し、一種のビジネスになっていたりもする。今回は監獄島アルカトラズが舞台ってわけだ。あいつらは娯楽狂だから、ゲームを白熱させる為に各国から送り込まれる調査員も今回受け入れた。ゲームをひっくり返そうとする俺たちのような勢力にもコインを賭けるバカがいるのさ」
「でも僕たちの思惑が成功したら、連中の計画は御和算じゃないか。それでもいいのか?」
「メサイアもシナーズも長期のゲームと実験を視野に入れたサンプルにすぎない。今回のゲームで破壊されたり死ぬようならAPFの研究所で代わりがすぐに作られる。まあメサイアが死ぬときは致死ウイルスが広がって街の住人ごと全滅しちまうがな。全滅したら、また新しい罪人を補充して、メサイアやシナーズをつくり、再びデスゲームが行われるって仕組みよ。表向きは罪人の大量更正施設って名目でな」
「人権的にアウトじゃないのか」
「アウトもいいとこだよ。これがばれたらこのゲームに関わる支配階級の首がまとめて吹っ飛ぶくらいにはな。だが逆をいうと、今回このゲームを阻止できなかったら、俺たちの依頼元である外部の勢力があぶりだされて、外の世界でアウトレイジに狙われることになる。俺たちがデスゲームで殺されれば、得た情報もなかったことになる。連中は反抗勢力のあぶり出しを目的にして、今回俺たちのような調査員もゲームに引き入れたんだろう。俺が知っているのは以上だな」
 ジェイルは一息つくと葉巻を吸ってうとうとし始めた。
「メアリのばらまく致死ウイルスをなんとかする方法を知りたい」
「そりゃあ、いっぺんAPFの施設に行ってみるしかねえな。メアリの機能は研究所が管理している。そこで制御できるなにかを見つけるしか――ぐう」
 ジェイルは話し終わると、いびきをたてて眠ってしまった。グレアムが身体をゆさぶっても起きない。
「なんなんだこいつは――」
 グレアムが呆れかけたそのときだった。外から悲鳴が響く。街に食人鬼(グール)が現れ、人を襲い始めたのだ。



 グレアムがフルメタルジャケットの外に出ると、体中に不気味な斑点を浮かせ、眼球が眼窩から僅かに飛び出した面妖な姿に変質した街の住人達が、共食いをはじめていた。遠めにもわかるほど筋力が増強しているので、人間離れした動きで素手で難なく生身の人間を引きちぎる。殺し合いにより血しぶきが往来に飛び交う。武器を持った住人が応戦していたが、その手にも食人鬼(グール)になったことを示す不気味な斑点が浮いていた。
「おいジェイル、とうとう始まったぞ。起きろ!」
 ジェイルはすやすやと眠り続けて起きない。マッドジョーカー軍曹が、店に入ってこようとする食人鬼(グール)に銃撃を浴びせながらグレアムに言った。
「俺達はメアリの致死ウイルスをなんとかする、APFの施設までジェイルの武装タクシーを借りるぞ」
「まて……むにゃ、俺が運転する」
 ジェイルが寝ぼけなまこで起きた。ジェイルは軍曹とフィオナを乗せてAPFの施設に向かう。だが道には食人鬼(グール)が暴徒と化して溢れかえっており、車へ攻撃を受けたが、武装タクシーによる装備で事なきを得た。
「トレイシー、ジェット、戦う力をもたない君達はなるべく僕の傍にいろ」
 フルメタルジャケットの一室で着替えたグレアムは拷問男になっていた。
「グレアムが……拷問男!?」
 トレイシーは街中に貼られたAPFの警告書で見知った顔を見て驚いている。
「いまさら気づいたのか。遅いぞ」
 拷問男はバヨネット君を呼び出し、目前の食人鬼(グール)に斬撃を浴びせた。拷問男はトレイシーの手をとると、店の外へ走った。
「メアリが殺されるのは避けなくてはいけない。事務所までいくぞ」
 拷問男がそういうと、トレイシーとジェットはうなづいてあとに続いた。往来は食人鬼(グール)で溢れており、バヨネット君でなぎ払わなければ進めない状態だった。筋力と共に速力も強化されていて、食人鬼(グール)は両手に武器を持ち、人間離れした動きを見せて襲い掛かってきた。
「グレアムもこの街の食べ物は食べなかったんだな」
「僕も食事はフルメタルジャケットで済ませていたからね。それが幸いしたな」
 何も知らずに薬物入りの食品を食べた罪人達は、異形のものと化して共食いしあっている。トレイシーは恐ろしさと共に複雑な気分になった。自分がもっとよびかけていればこんな自体は防げたのではないかと。
「それをいってもしかたがないだろ。どうやってもフルメタルジャケットの戦闘糧食だけじゃ足りないんだ。しかもマッドジョーカー軍曹が回りに呼びかけてたんだろ?僕はそれだけでもよくやったほうだと思うけどね。APFの事務所だ。メアリ!」
 APFの事務所につくと、メアリが怯えて机の下に隠れていた。拷問男を見るなり、メアリが腰に抱きついてくる。
『おにいちゃん!』
「無事でよかった」
 だが往来には殺戮が渦巻き、阿鼻叫喚の地獄と化していた。その地獄の隙間を縫うように改造散弾銃で攻撃を加えながら、一人の紳士がやってきた。人喰男だった。拷問男が顔色を変えて身構える。
「メアリは見逃すんじゃなかったのか」
「そんな約束は忘れてしまったな。この薬品を投与すれば、致死ウイルスはばら撒かれずにメアリだけ殺すことができる。その少女は生きているだけで多大な犠牲が払われる。ここで私が始末させてもらうよ」
 人喰男が薬物の噴射機を使って、遠距離からメアリの首元に薬品打ち込んだ。メアリが汗をかいてその場にうずくまり、苦しみ始める。
「まて、その薬物を投与したら、メアリを殺す必要はないだろう!」
 拷問男は人喰男の前に立ちふさがった。
「では罪人を何千人も犠牲にしてその少女を生かすのかね? 君も無限エネルギーが大事な口か?」
「違う! メアリは僕の――大事な妹だからだ!」
『――!!』
 そういって人喰男に応戦する拷問男。
「愚かな。生体兵器の娘のために戦うのかね」
 人喰男は無数のメスと改造散弾銃で拷問男を攻撃した。それをバヨネット君の刃でかわす拷問男。しかし一発弾を被弾してしまう。その傷口が徐々に広がり、焼けるような激痛を帯びるので拷問男は苦悶した。
「着弾と同時に、免疫システムを破壊し、肉食バクテリアが肉を食う特殊な弾丸だ。免疫システムが破壊されるから、その傷はもう治らんよ。人喰鬼(グール)専用の弾丸だったんだがね」
 人喰男がにやりと笑い、その恐ろしい銃口をメアリに向けた。
「やめろ!」
 メアリをかばい、拷問男が散弾の餌食になる。肉食バクテリアにより傷口は徐々に広がっていき、拷問男は激痛の中で倒れた。
『おにいちゃん! よくもおにいちゃんを!』
 メアリが連なる刃を翼のように広げて人喰男に放つ。人喰男はわずかに負傷したが、それでも余裕のうちに立っていた。メアリが再び攻撃態勢をとろうとするのを拷問男が静止する。
「メアリやめろ、人喰男とおまえが戦って消費すれば、シナーズがまた現れて住人達を襲いだす。トレイシーと逃げろ……マッドジョーカー軍曹とフィオナに助けてもらえ、ゴホッ」
 拷問男が吐血し、それを支えるトレイシーが涙ぐんだ。
「おいグレアム! しんじゃやだよ……!」
 人喰男がトレイシーとメアリに近づいてくる。
「メアリ、君が生きていると無用の血が流れる。ここで死にたまえ」
 人喰男がメアリの頭に銃口を向ける。そのときだった。強い力でトレイシーは引っ張られ、気づくとグレアムと口付けていた。グレアムは義眼を一つ眼窩からはずし、義眼と拷問男の電話番号ダイアル1800のタグのついたペンダントをトレイシーに手渡した。
「これは監獄街に来てから僕が見たり聞いたりしたことを記録してきた義眼型のビデオカメラだ。これをジェイルに渡してくれ――」
「やっやだよ、そんなこと頼むな! 自分で渡せよそんなの!」
 トレイシーは死の匂いが色濃くなってきた拷問男を見つめて涙を流した。
「君には世話をかけられっぱなしだったな。ようやく楽になれる――この甘ったれめ。僕は君のことがずっと大嫌いだんだ。もう二度と 顔も見たくないよ」
 拷問男はそういうと、トレイシーを突き飛ばし――人喰男を巻き込んで――自爆した。嘘をついたときの、血中に打ったクレイモア(地雷)による自爆だった。
「寂しくなったら――電話しな」
「グレアム――!!」
 メアリが涙を流しながらトレイシーの手のひらに文字を綴った。
『おねえちゃんは、生きなきゃだめ』
 トレイシーはそれを見て再び大粒の涙をこぼした。トレイシーは立ち上がると、メアリとジェットをつれて、その場から離れるように泣きながら走った。
 


 トレイシーが裏路地に入ると、往来に他国の軍隊が来ていた。食人鬼(グール)の対処に派遣されてきたらしい、ドイツ軍と、フィンランド白衛軍だった。トレイシーは軍隊に保護され、事態が収束した後、落ち合ったジェイルにグレアムの義眼を渡す。
「そうか、グレアムは――」
 ジェイルが言いよどんだ。グレアムの上司だというキンバリーと名乗る黒髪の美しい女性も監獄街に来ていた。
「あなたがトレイシー? はじめまして。グレアムにはあなたと同じ名前の双子の姉がいたのよ。ただグレアムとは逆の悪の道にいってしまって――最期は自殺、グレアムは彼女を救えなかった事に深い後悔があったと思うわ。だからグレアムは死んでしまったけど、あなたを救えて悔いはなかったと思うの」
 キンバリーがトレイシーを励ますようにいった。トレイシーは自分のことに親身になってくれたグレアムを思い出してまた涙を流した。
 即席で作られた駐屯基地にはマッドジョーカー軍曹とフィオナもいて、APFの研究所を破壊してきたと話した。メアリを制御していた装置も破壊し、メアリは今ではただの無力な子供にすぎないと言った。
「じゃあ、もうメアリは自由なんだね」
 トレイシーはほっとしたように胸をなでおろした。マッドジョーカー軍曹は祖国からきた上官のシュトゥールム将軍と話をしていた。今回の件で、この街の運営に関わった支配階級は雁首そろえて退陣になるだろうとのことだった。トレイシーはそこまでの話についていけなかったが、事が収まるところへ収まったような気がした。マッドジョーカー軍曹とフィオナはドイツに帰って一緒に暮らすらしい。ジェイルはまた放浪の旅を続けると。
 生きのこりの罪人達は別の監獄に移され、トレイシーの冤罪も正式に認められた。トレイシーは晴れてルッケンバックに帰れることになった。



 ルッケンバックの広い牧場で、トレイシーは畑仕事にいそしんでいる。メアリは同じ牧場にいて、牧草地でダニエルと共に絵本を読んでいた。ジェットは愛馬ダレルの世話をしている。トレイシーはつとめて忙しく働いた。忙しくしていないと、グレアムのことを思い出してしまって泣いてしまうからだ。首元にはグレアムからもらった電話番号がタグに刻印されたペンダントが光っている。
 地獄に繋がる電話はないとわかっていても、寂しい夜は拷問男に電話したくなってしまう。
「……ハローグレアム、元気か?」
トレイシーは、意味がないとわかっていても、ダイアル1800を押し――呼び出し音を待った。
『ハロートレイシー、拷問男だ。これを聞いているということは、僕はもういないんだな。不思議な気分だよ。本当にこの番号に電話するとはこの甘ったれめ。でも、君はよくがんばったよ。無事に牧場でこのメッセージを聞いていることを祈る。僕のことは忘れて、幸せになってくれ。アルカトラズで君はいつも不機嫌だったが、最後に――一度でいいから君の笑顔がみたかったな』
 メッセージはそれだけだった。トレイシーの目に涙がうかんだが、トレイシーは畑仕事と動物の世話に戻った。
 トレイシーは寂しくなるとダイアル1800に電話をかけては、グレアムのメッセージを聞いて気持ちを奮い立たせたが、その番号も繋がらなくなってしまった。
 しばらくは拷問男に抱いた恋心で、心が拷問されているようだった。いつしか心の拷問もおわり、グレアムとの出会いが優しい記憶になったあと、トレイシーは昔のことを静かに思い出す。
「グレアム、ありがとう」
 トレイシーは緑溢れる牧場で、抜けるような青い空に微笑んで言った。

FIN
 

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